【判旨】 ※上告人=国(国立病院での事例である)
「原審の適法に確定した事実関係の概要は、次のとおりである。
亡武田みさえ(以下「みさえ」という。)は、昭和四年一月五日に出生し、同三八年から「エホバの証人」の信者であって、宗教上の信念から、いかなる場合にも輸血を受けることは拒否するという固い意思を有していた。
みさえの夫である被上告人・附帯上告人武田茂久(以下「被上告人茂久」という。)は、「エホバの証人」の信者ではないが、みさえの右意思を尊重しており、同人の長男である被上告人・附帯上告人武田雅美(以下「被上告人雅美」という。)は、その信者である。
上告人・附帯被上告人(以下「上告人」という。)が設置し、運営している東京大学医科学研究所附属病院(以下「医科研」という。)に医師として勤務していた内田久則は、「エホバの証人」の信者に協力的な医師を紹介するなどの活動をしている「エホバの証人」の医療機関連絡委員会(以下「連絡委員会」という。)のメンバーの間で、輸血を伴わない手術をした例を有することで知られていた。
しかし、医科研においては、外科手術を受ける患者が「エホバの証人」の信者である場合、右信者が、輸血を受けるのを拒否することを尊重し、できる限り輸血をしないことにするが、輸血以外には救命手段がない事態に至ったときは、患者及びその家族の諾否にかかわらず輸血する、という方針を採用していた。
みさえは、平成四年六月一七日、国家公務員共済組合連合会立川病院に入院し、同年七月六日、悪性の肝臓血管腫との診断結果を伝えられたが、同病院の医師から、輸血をしないで手術することはできないと言われたことから、同月一一日、同病院を退院し、輸血を伴わない手術を受けることができる医療機関を探した。
連絡委員会のメンバーが、平成四年七月二七日、内田医師に対し、みさえは肝臓がんに罹患していると思われるので、その診察を依頼したい旨を連絡したところ、同医師は、これを了解し、右メンバーに対して、がんが転移していなければ輸血をしないで手術することが可能であるから、すぐ検査を受けるようにと述べた。
みさえは、平成四年八月一八日、医科研に入院し、同年九月一六日、肝臓の腫瘍を摘出する手術(以下「本件手術」という。)を受けたが、その間、同人、被上告人茂久及び同雅美は、内田医師並びに医科研に医師として勤務していた冨川伸二及び市川直哉(以下、右三人の医師を「内田医師ら」という。)に対し、みさえは輸血を受けることができない旨を伝えた。
被上告人雅美は、同月一四日、内田医師に対し、みさえ及び被上告人茂久が連署した免責証書を手渡したが、右証書には、みさえは輸血を受けることができないこと及び輸血をしなかったために生じた損傷に関して医師及び病院職員等の責任を問わない旨が記載されていた。
内田医師らは、平成四年九月一六日、輸血を必要とする事態が生ずる可能性があったことから、その準備をした上で本件手術を施行した。
患部の腫瘍を摘出した段階で出血量が約二二四五ミリリットルに達するなどの状態になったので、内田医師らは、輸血をしない限りみさえを救うことができない可能性が高いと判断して輸血をした。
みさえは、医科研を退院した後、平成九年八月一三日、死亡した。
被上告人・附帯上告人ら(以下「被上告人ら」という。)は、その相続人である。
右事実関係に基づいて、上告人のみさえに対する不法行為責任の成否について検討する。
本件において、内田医師らが、みさえの肝臓の腫瘍を摘出するために、医療水準に従った相当な手術をしようとすることは、人の生命及び健康を管理すべき業務に従事する者として当然のことであるということができる。
しかし、患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。
そして、みさえが、宗教上の信念からいかなる場合にも輸血を受けることは拒否するとの固い意思を有しており、輸血を伴わない手術を受けることができると期待して医科研に入院したことを内田医師らが知っていたなど本件の事実関係の下では、内田医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、みさえに対し、医科研としてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、医科研への入院を継続した上、内田医師らの下で本件手術を受けるか否かをみさえ自身の意思決定にゆだねるべきであったと解するのが相当である。
ところが、内田医師らは、本件手術に至るまでの約一か月の間に、手術の際に輸血を必要とする事態が生ずる可能性があることを認識したにもかかわらず、みさえに対して医科研が採用していた右方針を説明せず、同人及び被上告人らに対して輸血する可能性があることを告げないまま本件手術を施行し、右方針に従って輸血をしたのである。
そうすると、本件においては、内田医師らは、右説明を怠ったことにより、みさえが輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、この点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。
そして、また、上告人は、内田医師らの使用者として、みさえに対し民法七一五条に基づく不法行為責任を負うものといわなければならない。」
【判例のポイント】
1.患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような「意思決定をする権利」は、「人格権」の一内容として尊重されなければならない。
2.医師が患者のそのような意思を知っており、患者も輸血はされないと期待していた場合は、医師は、やむを得ない場合は輸血するという方針を採っていることを説明し、患者自身の意思決定に委ねるべきである。
3.説明を怠れば(=民法709条の「過失」)、患者の意思決定をする権利を奪った、人格権の侵害として、精神的苦痛を慰謝すべき責任を負う。
【ワンポイントレッスン】
1.本判決の射程距離
最高裁は、憲法に言及することなく、単純に不法行為責任(民法709条・710条・715条)の成否を検討している。
国立病院の事例なので、憲法を論じることも可能であった。純粋な民間の病院であれば、当然に憲法は表に出てこない(私人間効力の問題で民法709条を通じて間接適用)。
つまり、死ぬ権利にかかわる「自己決定権」(憲法13条)はキワドイ問題なので、最高裁は、「意思決定をする権利」などと曖昧な表現を使って、民法論だけで逃げちゃったわけである。
潮見教授は、本判決の分析に望む際に、本判決のいう「人格権」の発露としての「意思決定をする権利」を「自己決定権」の一般理論に置き換え、本判決がこうした一般理論に対する態度表明をしたものと読むことは、本判決に対する理解として正しいものではない、と述べる(重判・解説)。
しかし、受験上は憲法上の視点も意識しておくとよい。
2.憲法論
本件では
宗教上の信念に基づく患者の自己決定権を尊重すべきであるという価値
VS
およそ人の生命は崇高なものとして尊重されるべきであるという価値
という対立がある。
憲法的に考えると、患者の自己決定権(憲法13条)および信教の自由(憲法20条)が、崇高な人の生命を保護するために制約を受けるか、という問題となる。
これを「リベラリズム VS パターナリズム」と捉えることもできる。
簡単に言うと、信仰に殉じて自由に死なせてあげるか、それとも、国家がお節介をして助けてあげるべきか、である。
佐藤幸治教授は、「自殺の権利」については、「限定的なパターナリスティックな制約」が妥当すると述べる(佐藤・憲法P460)。
確かに、健康優良な人が自殺しようとして、ビルから飛び降りたり、電車に飛びこんだ場合、治療拒否を認めるべきではない。この点は争いないだろう。
これに対して、信教の自由が絡んだ、死のリスクがある輸血拒否となると、きわめて難しい。
患者の自己決定を尊重すると、「輸血をしないと約束したけど、目の前の死にかけてる患者を放っておくわけにはいかん!」と自分の信念で輸血した、医師にふさわしい人格の持ち主が損害賠償請求され、ドライに見殺しにした医師が何の責任も負わない、という皮肉な結果となる。
しかし、患者にすれば、己の信仰に反することは、死よりも辛いことなのかもしれない。
結局、この論点については、どちらの立場が妥当とは一概に言えない。
論文試験では、対立価値で悩みを見せて、判例を紹介すれば、いずれによっても合格答案である。
…余談だが、本事例の関係資料を読んだところ、担当医師は「こりゃ、輸血しないとどう考えても手術は無理だ。でも患者さん頑固だから教えたら手術しないって言い出すだろうな。」と最初から輸血するつもりで、わざと曖昧に説明して(善意でだました?)、手術を決行したフシがある(筆者の個人的な推測です、実際は全然違うかも)。
【試験対策上の注意点】
1.憲法・民法の択一対策として、ぜひ押さえておこう。
2.外務 I 種・論文で出題済みなので、国 I
・論文で今後出題される可能性は低い。