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キャリア・エリートへの道

大きな夢の実現に向けて

寄稿に寄せて

 渡辺先生から原稿の依頼が来た時は正直、驚きました。私のような者の半生が国家公務員試験 I 種の受験を考えていらっしゃる方やその他の方々に役に立つものだろうかと。

 私は今年(2004年)国家公務員 I 種試験に合格し、国土交通省に内々定を頂きました。しかし、俗に言う「キャリア官僚」は超がつくほどのエリート職であると世間に認識されています。

 では、そこに働いている人、または合格・内定した人は雲の上の存在なのでしょうか。少なくとも私は一概にイエスとは言えないと思います。もちろん、優秀な方、尊敬できる方が多いです。しかし、私を含め、私の友人や、官庁訪問中出会った現役公務員の方々は雲の上の存在などでは決してなく、誰もが1人の日本国民、一公務員です。特に、私の出会った公務員の方はエリート職に溺れるどころか、謙虚な方が多かったです。また、私はエリート街道を突き進んできたわけではなく、むしろ失敗を重ねて、今に至ります。

 上記のように考えている中、私が公務員試験に合格した後、渡辺先生から私の半生を記述することで、素顔の国 I 内定者の姿を伝えて欲しいと依頼されました。ここで自分の半生を振り返って、概略ながらも記述しようと思います。私の半世記を通して、「キャリア官僚」を目指し、そして来年から霞ヶ関で働く者の素顔を伝えることができれば良いと思っています。また、今後、国家公務員を目指される方にとって、勉強方法や官庁訪問について、少しでもお役に立てればと思います。

 私は1982年9月8日、3人兄弟の長男として福岡県大牟田市に生まれました。下に1つ下の弟と8つ下の妹がいます。父は建設作業員、母は主婦の5人家族です。わたしが生まれた大牟田市は昔、石炭ラッシュに沸いた街で石炭を採掘する三池鉱山や三井化学の工場がある工業都市でした。しかし、エネルギー政策の転換から、石炭需要が減り、徐々に大牟田市も都市としての規模を小さくしていきます。私が小学校1年生頃までは、友人の中にも親が三池炭坑や三井の工場で勤めているという人がいましたが、社宅の取り壊しや三井の大規模な人員削減から徐々に人が減っていく、そのような街に生まれました。

 生まれて小学校にあがる前までは、三里町の小さなアパートに住んでいました。幼少時代の私は1つ下の弟と一緒に、当時住んでいたアパートの周りで遊んでいました。海が近いところに住んでいましたので、あさり採りのおじさんや、近くのスーパーの店員さんに可愛がってもらったと聞きます。また、祖父に特に目をかけてもらったようで、僕の手を引いて、近くの踏み切りに電車を見に連れて行ってもらいました。幼稚園では、先生によく叱られながらも、楽しく通っていました。この頃は勉強よりも遊びが中心だったと思います。昆虫や動物に興味があり、図鑑や写真をよく見ていました。

 小学校に入ると同時に引越しをし、三池の一軒家に住むことになりました。周りは田んぼとクリーク、遠くには山が見え、のどかな場所に私の家があります(今の実家です)。小学校は近くの大牟田市立羽山台小学校に通いました。まだ創立10年程度の新しい公立の小学校です。そこで私は6年間、小学校生活を送ることになります。

 小学校低学年の頃の私は、学校の勉強は最低限のことだけをやり、その他は遊んでいました。宿題を済ませてすぐに外に出ていくというのが日課でした。この頃私が注意されたことは、「字が汚いこと」と「早合点をすること」です。特に硬筆や書写の授業では先生に丁寧に書くように注意されました。

 高学年になると、勉強というものを意識し始めます。というのも、小学校3、4年生の担任の先生が「落ちこぼれをなくす」ことを目的に、中休みや昼休みに漢字のテストをやったり、夏休みには他のクラスとは別に算数と国語のプリントが出たりしました。また、勉強以外にも、音楽ではアイヌやモンゴルの民俗音楽をやったり、運動会のお遊戯では小学生では難しいようなもの(荒馬やエイサーといったもの)をやったりと、勉強を中心としながらも課外活動にも充実した学校生活を送ることができました。また、ここで教えていただいた先生とは今も付き合いがあり、色々な面で相談に乗ってもらっています。私がその後、早稲田大学、国土交通省に進む際にも有益なアドバイスを頂きました。

 小学校5、6年生はスパルタ教育でした。当時問題視され始めていたものに、体罰がありましたが、私の学級では当たり前で、皆先生の体罰に恐れていた部分もありました。そんな中、私は自分が違うと思ったものははっきりと言う性格で、また自己中心的な面があったので先生にはしょっちゅう殴られていました。後々になって先生に言われたのですが、私が最後まで先生に食って掛かったようです。その気持ちは持ち続けつつも抑える時はぐっと抑えるように言われました。小学校5、6年生の担任の先生は「金八先生」を目標にしていたようで、心の勉強というものがありました。私自身、自己中心的な面があったので、このくらいの教育でちょうど良かったのかもしれません。みんなの前で先生から「お前は嫌われている」といわれたときはさすがに応えましたが、そんな悔しさをバネに、困難を乗り越えられるような根性がついたと思います。

 この頃は体育や図工、パソコンなど、勉強とは違った分野を中心に力をいれていましたが、5年生から塾通いし、6年生で転塾して志学館という塾に入ります。志学館は今後、私の人生の大きな影響を与えた塾です。私が早稲田大学に入学できたこと、国家公務員になれたこともこの塾の先生の力が大きいです。私が大学2年生の頃に急病で亡くなられましたが、この小学6年生から大学2年生まで、お世話になりっぱなしでした。私の小学校で当時、私立中学校受験をする人はほとんどいませんでしたが、そんな塾の先生のすすめもあって、中学受験の勉強を始めました。中学受験は熊本マリスト中学を受験し合格したのですが、地元の中学校に進みました。

 小学校時代を通して、私の成績は良い方だったと思います。クラスで一番ではありませんでしたが、学校の勉強にはついていくことができました。また、5年間夏休みの理科工作展に出品しました。昆虫に興味があったので、昆虫を題材とした研究をしました。6年生の時は受験勉強で手が回りませんでしたが、将来は昆虫について研究したいと思っていました。勉強以外では、これといって運動はしていませんでしたが、体が大きい方だったこと、毎日外で遊んでいたことから、マラソン大会入賞や、地区リレー大会、バスケットボール大会にも選手として参加することができました。

中学時代

 中学校は家から徒歩10分ほどのところにある大牟田市立田隈中学校に通いました。羽山台小学校のほとんどがこの中学校に進学します。私は私立中学校を蹴って公立中学校にきたので、それなりに結果を出さなければならないと思って入学ました。中学1年生の頃は勉強でこの中学校の10番以内に入ろうと思っていたのですが、担任の先生に順位を出さないと言われ、勉強に対する気持ちが下がったことを記憶しています。もちろん、それだけが理由ではなく、昼休みは先輩とサッカーをしたり、「不良」・「ヤンキー」に憧れたりして、中学1年生の後半から怠け始めました。また、小学校で注意されていたものの、自分の頑固な性格から、先生に対しても物怖じせず口答えしたので、英語の先生と担任であり国語の先生に嫌われていました。特に英語の先生は、私がどんなに良い成績をとっても「4」しかもらえず、それが英語嫌いにまで発展しました。今になっては笑い話ですが、私が「官僚」を目指したのはこの時期でした。というのも、この英語の先生をクビにしたいと思い、それをどうすればできるか塾の先生に聞いたところ、文部科学省に入れば良いと言われたからです(もちろん、それ以外にもいじめ問題や先生の教育力低下に中学生ながら問題意識はありましたが)。

 中学2年生の頃は遊び全盛期でした。学校の勉強は塾で勉強していたので大体理解でき、そこであまった時間を友人とマージャンをしたりパソコンをいじったり、釣りやサッカーなんかをずっとしていました。私が遊んでいた友人は、学校の成績があまり良くない友人でしたが、挨拶がしっかりしていたり、自分の意見をはっきり言う友人ばかりだったりしたので、両親も気に入って父が仕事から帰ると皆で食卓を囲んでマージャンをしていました(この時、点数計算ができず、またお金をもっていなかったので、何も賭けはせず、ただドンジャラ感覚で遊んでいました)。

 こんな生活が約1年も続いた結果、中学3年生の時の成績は、学年で30〜50番位でした(学年250人中)。それでも中学3年生にもなると「受験」というものが頭にチラついてきます。しかし、このとき勉強しようと思っても、時既に遅しでした。私は、学校の勉強はできたものの、私立高校型の勉強や模試の点数が思うように伸びず、私が第1志望とする私立の弘学館高校にはあと一歩及ばずでした。その反面、同じ塾の友人は2年生の頃勉強した結果、3年生時には成績が上がり、弘学館高校に合格し、その後東京大学に進学しました。このときの後悔は、今になっても忘れていません。また、私は内申点も低く、地元の県立高校でさえ学力はあっても落ちるかもしれないとまで言われました。そんな中、私は半ば受験にやる気を起こさないまま私立は大牟田高校と福岡大学附属大濠高校を受験し合格しました。県立は内申点が低かったものの本試験で点数が取れて、地元の県立三池高校に合格しました。

高校時代

 結局、弘学館高校に落ちた私は地元の県立三池高校に進みました。三池高校は福岡の県立高校の中では真ん中のレベルです。文武両道を掲げる三池高校は年1回の運動会が大きなイベントで、地域でも評判になっています。そんな高校に進学した私の高校生活は正直言って良いものではありませんでした。文系の優秀クラスと呼ばれる人文クラスに入った私は、ある程度の順位は確保できると思ったのですが、最初のテストは42人中30番で、自分の実力を痛感させられました。勉強せねばと思っていたのですが、部活や、夏になると運動会の練習があるので、あまり勉強に力を入れることができませんでした。それでも、毎日課される宿題をこなし、1日3時間の勉強時間を確保していました。

 1年生、2年生は主に学校中心の生活が続きました。私の高校は朝7時半から朝課外と言って課外授業があります。また、長期休みにも夏課外、冬課外、春課外といって課外授業があり、勉強の量だけは確保された学校だと言えますが、学校の先生が授業の延長上で行なっているため、私たち生徒にとってはマンネリ意識が強く、身が入った勉強はできませんでした。また、夏には運動会の練習があり、このときは暑さと(県立高校にはエアコンはありません)、疲労がたまって勉強に手がつかない状態でした。というのも、朝7時から12時まで課外授業があり、その後お昼の暑い時間にグランドで運動会の練習が5時まで、5時以降は部活か運動会役員であればその仕事があります。私は1、2年生の頃運動会の役員を少ししていたので、その仕事と部活があり、とても勉強できる状態でありませんでした。また、生活指導の行き過ぎた学校で、軍隊のような行進など、古い体質が拭いきれていない学校でした。欠席指導、服装指導、言葉づかいなど様々なことにうるさい学校で、特に毎週月曜日にある全校朝礼の時に校長先生の話を聞くときは、皆立って聞かなければなりません。下を向いたら注意され、30分以上話が続くので、朝礼中、貧血で何人も倒れました(今となってはちょっとした笑い話になってしまいますが)。こんな学校に入学した私は、このような指導方法は間違っている、文部科学省に行って変えてやる!という気持ちで、文部科学省への憧れが一層高まりました。

受験勉強

 そんな高校生活もあっと言う間で、3年生になると勉強しなければならない環境になります。私はセンター試験のちょうど1年前に勉強に本腰を入れ、高校2年生の1月から勉強を始めていました。勉強のきっかけは、小学6年生の頃から中学校時代に通っていた塾の先輩に勉強を誘われたことで、先輩と一緒にその塾で自習していました。先生も月謝は必要ないから入学後の出世払いでいいと言って、私の勉強の後押ししてくれました。4月からは私の塾の同期で同じ高校に通っていた友人も塾に来て、中学生の授業が行なわれている後ろでひたすら自習をしました。学校や家よりも塾の方が先生の目が光っているためか、勉強に集中できました。このスタートダッシュのお陰で私の成績は3年生になって伸びました。

 私は北海道大学を第1志望していましたが、3年生時の平均偏差値は63〜65で、1年間B判定を維持できました。特に、北海道大学は国語が難問だったのですが、学校の国語の先生が教え方に定評のある方で、その方に目をかけてもらい、国語は得意分野にすることができました。しかし、英語は依然、苦手科目で難関校には全く手が出ませんでした。

 早稲田大学は、私が私立大学に進学する気は無かったのですが、祖父の母校であったので、志望校には書いていました。しかし、D判定しかとることができず(受験者順位も下から200番程度でした)、あまり本気で進学するなどとは考えていませんでした。

 そしてある程度の学力の基礎固めが終わった後、私は受験間近の冬休みに、初めて「予備校」というものに行きました。模試は1年生時からほぼ毎月受けさせられたのですが、予備校通いは課外授業に支障がきたすからと、学校では禁止されていました。しかし、塾の先生のすすめと、自分の将来のためにそんなことは言っていられないと思い、課外授業が終わった後、福岡まで往復電車で3時間かけて2週間通いました。予備校では色々な高校から生徒がいて刺激になり、また、予備校の講師の教え方は学校の先生と比べてとてもわかり易く、私の勉強の総仕上げに良かったと思います。しかし、このときも予備校の授業に感動する毎日で、問題をこなせるわけではありませんでした。実際、今在学している早稲田大学の問題には届かず、北海道大学目指してひたすら過去問演習を繰り返していました。

大学受験

 結局、大学受験は防衛大、同志社(法)、明治(政経)、早稲田(法、教育)、国立は北海道大(経済)、熊本大(教育)を受けました。大学入試センター試験は610点、北海道大学のボーダーラインでした。この点数に私は安全策に走り、北海道大学の教育学部から経済学部に変更しました。そして、3年生で転部しようと思っていました。受験期の心理状態は独特のもので、いつもは強気の私もこのときはどうしても北海道大学にいきたかったので、直前になって志望校を変更しました。その後、同志社(法)、明治(政経)を受験し、どちらも不合格でした。この2校のどちらか1校は合格すると思っていたのですが(B〜C判定)、どちらも落ちてしまい、私は浪人覚悟で受験を続けました。その後、早稲田大学の2つの学部の受験は手応えを感じながらも、同志社、明治落ちだったので不合格だろうと思っていました。

 そして運命の北海道大学の試験。英語に不安要素はあったものの国語と数学は合格レベルの出来だと思いました。北海道大学の受験は私にとってとても思い出深いものになりました。というのも、受験期間中、北海道大学は学生主体の受験生歓迎のイベントを催してくれました。私のような地方出身者がホテルに泊まっていると、北海道大学の先輩が声を掛けてくださり、それから3日間(前々日、前日、受験当日の3日間)、北海道大学の案内や札幌の有名店に連れて行ってくれました。試験後はまた、先輩がねぎらいのコンパを催してくれました。この北海道の熱い歓迎と1年半の勉強の充実感で、北海道大学に一浪しても行きたい!という思いを胸に福岡に帰りました。

 北海道から帰宅するとすぐ、早稲田大学教育学部の合格発表がありました。続けざまに法学部の発表。結果はどちらも合格でした。思ってもみなかった受験結果に、自分が早稲田大学に合格したことが信じることができず、合格発表の時、何度も電話で確認しました(笑い話ですが母は事務所に確認の電話まで入れ、後に私は事務所でちょっとした話題の人になったようです)。私の高校では早稲田に合格する人は数年でておらず、私が何年ぶりかの現役合格者でした。その上、3年生で学力が伸びたとはいえ学年で30番前後、クラスでも10番前後だった私の合格に友人や先生もとても驚いていました。

 その後、私は早稲田大学法学部に進学することを決めました。私にとって憧れの北海道大学の進学を断念することは、自分の中で考えられないことでしたが、自分の大目標である「官僚」になるためには早稲田大学の方が有利だと考えたこと(合格者数や東京という場所柄から)、祖父は金銭苦のために早稲田大学を中退していたので、その意思を継ぎたいと思ったこと、北海道よりも東京の方が何かあったときに便利なこと、そして何より塾の先生が「あくまで大学は通過点、勝負はまだ続くなら少しでも有利な方に行け」と言われ、早稲田大学に決めました。東京で家探しをしていた3月7日、北海道大学で合格者の掲示を見て、私に合格を伝えてくれた先輩から電話があり、その時早稲田大学に進学することを電話越しに伝えた時は、こみ上げてくる熱い気持ちがありました。

大学時代

 私は、自分の実力のはるか及ばないと考えていた早稲田大学法学部に進学しました。慣れない東京生活、初めての一人暮らし、勉強内容の高度化など私にとって実力以上の学校に入学したという不安よりもこれからの4年間に大きな期待を抱きながら上京しました。

 大学に入学するとすぐに新入生歓迎コンパがありました。私は同じアパートの友人といくつかのサークルに参加し、最終的に早稲田大学螢法会という法律サークルに入りました。サークルでは主にゼミ形式で法律を勉強するのですが、それ以外にも合宿やサッカーなどをする、オールラウンドに近いサークルです。このサークルに私が入会した一番の理由は先輩が良かったことでした。特に2年上の先輩に国家公務員 I 種を目指している人がいたことや、国土交通省にOBがいらっしゃって、飲み会の時に興味深いお話を聞けたことが理由でした。

 1年生の頃はサークルと学校の勉強に夢中でした。中国語を履修していたのですが、その中でも難しいクラスに入っていたため、予復習が忙しく、また前期に法医学をテーマとしたパソコンの授業で毎日プレゼンテーションを課されていたので、学校を中心とした充実した大学生活を楽しんでいました。私はやっと大学受験から開放されて気楽に過ごしていましたが、この頃、2つ上の先輩が公務員試験の受験生で、将来歩むであろう公務員試験受験生の姿を間近に見ることが出来ました。その先輩に色々なアドバイスも頂き、この頃、予備校の話なども先輩から教わることができました。

 2年生から私は公務員試験を意識しました。私は決してエリート街道を突き進んできたわけではなく、紆余曲折して早稲田大学に入学したので、仮に試験に合格できないにしてもやるだけのことはやろうと考えていました。早速、サークルの先輩が通っていた早稲田セミナーの2年コースの5月生に入学しました。2年コース5月生というと早稲田セミナーで一番早い講座ですが、私が高校時代に予備校通いを禁止されていた反動もあって、早く予備校に行きたいと思い、このコースに決めました。2年コースの1年目は概論的な勉強が多いのですが、志を共にする仲間と勉強できることはとても刺激的でした。ここで、仲良くなった他大学の友人2人と、3人で公務員試験勉強を開始しました。今、3人とも第1志望官庁に内定を頂けたことは、今思うと何か運命めいたものを感じます。2年生の時は学校・予備校・サークル、そして塾講師のアルバイトと幅広い活動をしました。この頃はまだ試験に対する意識は低く、予備校があっても授業を受けっぱなしの状態が多かったです。ただ、経済の過去問演習は II 種レベルですが行なっていました。また、憲法の芦辺先生の教科書を一通り読んでいました。

 3年生になって上位合格講座が始まると、意識は一変します。私は大学受験と同じように1月から勉強を始めていたのですが、思った以上に実力がついておらず、特に渡辺先生の憲法や行政法の授業では自分の未熟さを痛感させられました。それでも早稲田セミナーの先生の指示する最低限のこと、例えば教科書読み込みや過去問演習は繰り返していました。

 その後、後期に渡辺ゼミの選抜試験があり、私は迷わず受験しました。私が渡辺ゼミを受験した理由は2つあります。1つは前述したように、ダメもとでもやれるだけのことはやろうと思ったこと、もう1つは他大学の友人がもっと増えるのではないかと思って受験しました。私の大学受験を考えてみれば、先輩のアドバイスと塾の先生の協力があって実力以上の力が発揮できたと思います。渡辺ゼミに入ることでその環境に少しでも自分を近づけることができると考え、渡辺ゼミを受講しました(http://www.thefuture.co.jp/watanabe_seminar/taiken10.html)。

 3年生の後期からは渡辺ゼミ中心の勉強生活でした。就職活動もしていたのですが、あくまで公務員試験をメインに考えていたので、息抜き程度に就職活動をしていました。ただ、就職活動を通して得たものは大きく、特に自分よりも年配の方とお話を聞くことができたことは、後々の官庁訪問に大変役に立ちました。この時期、特に3年生の3月から5月(外資系企業を受けていればもっと早め。私も外資系企業を受けていたので、1月から)は毎日が忙しく、何か予定が入っていました。ただ、その分この時期は進路に迷う時期なので、どのくらい公務員試験に対して意識を持ち続けるかが、公務員試験の勝負の分かれ目だと思います。実際、私の友人も民間企業に内定したので、公務員試験を受験せずに終わった人もいます(もちろん、彼も真剣に悩んだ結果だと思います)。私もご多分に漏れず、就職活動に傾倒していた時期がありました。その時は勉強が手につかず、就職活動だと言って勉強から逃げていました。

 そんな時、渡辺ゼミの友人に熱いメッセージをもらい、受験勉強に本腰を入れることにしました。渡辺ゼミでは再受験の人もいて、わたしの友人もその1人でした。彼から失敗談を聞いた時、私はハッとして自分の甘さに気付き、勉強を再開しようと思いました。その後、彼らとは内定者を招いて、6人程で政策ディスカッションをしていました。試験前の厳しい時期でしたが、問題意識を持ち、それを解決するための政策を作ることが行政官として大切なことだと考えたからです。問題点を指摘することは誰でもできますが、打開策を練ることは容易ではありません。そんな中でこのようなディスカッションを通して問題意識を共有し、志を共にする仲間と解決策を作成することは、とても貴重な体験だったと思います。勉強、就職活動、ディスカッションと、否応にも試験までのカウントダウンを意識し始めたのがこの時期でした。

志望省庁の変更

 この時期、私は文部科学省から国土交通省に志望意識が変わりました。10月以降、何度も文部科学省に足を運んでいたのですが、実際自分が理想とする教育を文部科学省では実現できないと感じつつありました。教育は誰でも語ることができる分、複雑で多様であり、私の理想とする教育もその氷山の一角にすぎないということを感じたからです。そして、私の理想とする教育を国レベルでやってしまえば、それこそ思想統制になりかねないと思いました。そしてそれならば公務員として他の興味がある省庁に勤め、引退後にでも私塾などを開いて自分の考えを伝えていければと思うようになりました。

 そんな省庁選びに迷っている中、国土交通省と出会いました。父が建設作業員をしている影響もあってか、私の頭の中に「建設」という言葉が離れませんでした。実際、民間の就職活動は銀行を中心にまわりましたが、いまいち興味がわかず、内定を頂いても辞退する上京でした。それはやはり、私が小さい頃からの環境が潜在意識となって影響したのだと思います。後になって先輩公務員の方に聞いた話ですが、自分の志望する職業と自分が今まで歩んできた道を出来る限りブレないように選択することが良いと言われました。なぜなら、自分でやりたい仕事を語るときは本音で語ることができ、自然と熱い思いが相手に伝わるからです。そして、この国土交通省に対する思いは、説明会に行くたびに高まってきました。省庁の人が実直で、熱い方が多かったこと、仕事が目に見えやすいこと、そしてやはり一番は自分の父の姿を見て育ち、共に汗をかきたいと思ったことです。就職活動前、父はゼネコンをはじめ建設業界に就職活動をすることを勧めなかったので、その分野の就職活動はしませんでしたが、やはり未練がありました。このように考えていた中、出会った国土交通省に自分の公務員としての道を賭けてみようと思いました。

本試験直前期

 4月後半には民間の就職活動もせず、毎日学校の自習室で朝から晩までいました。この時期どれくらい知識を付けるかが1、2点アップに影響すると思います。直前期は新しいことをせず、毎日過去問のできなかった問題を繰り返し解きました。分野別に言えば、教養は時事のみやりました。法律では全科目(商法を切っていたので6科目でしたが)の過去問の繰り返し、重要判例集過去3年分の読み込み、そして判例六法の読み込みをしていました。特に六法読み込みは、一見すると非効率のようですが、実は効果的で、複雑な行政不服審査法や訴訟法の条文確認や、判例の穴を潰すのに格好の参考書だと思います。実際、この時に潰した判例のお陰で民法と刑法で1問ずつ点数をとることができました。

国 I 本試験

 5月3日、国家 I 種1次試験受験。結果は、1次試験は教養26、専門40の66点で1次試験をパスすることができました。教養の点数が思うように伸びなかったのですが、専門試験は渡辺ゼミのお陰で高得点をとることができました。その後、23日まで渡辺ゼミのレジュメ読み込みや試験委員のホームページや著作を読み、それ以上は手を広げずに2次試験に臨みました。2次試験では渡辺先生が最低おさえておくべき問題として挙げられた問題が出題され、私はそのお陰で何とか答案を埋めることができました。今年は、1次試験が簡単になった分、2次試験の比重が大きかったのだと思います。実際、1次試験ギリギリで合格した人でも最終合格し、60点以上の人が落ちていました(公務員・外交官試験Q&A41-1・2参照)。

 23日が終わった後は開放された気分でした。試験後は友人と飲みに行き、家に帰ったときは充実した気持ちで眠れました。試験はまだ続くのですが、その結果がどちらにしろ、私は2年間の勉強の成果を出し切ったと思ったからです。これは全ての試験にいえると思うのですが、試験後に後悔しない勉強をすることが大切だと思います。私も何度か受験をし、失敗もあり成功もありましたが、失敗した試験にはやはり後悔があります(中学校2年生の時遊ばなければ……と今も思います)。

 その後、人事院面接のために友人と模擬面接を5回程行なうだけで、23日以降は全く勉強しませんでした。面接の練習も飲む口実で、リラックスした気分で面接試験に望めました。6月5日の面接試験後、発表まで学校に顔を出しつつ、志望官庁の情報集めを行い、最終合格発表を待ちました。

 官庁訪問日記については別頁を参照してください。

終わりに

 私の半生を概略ですが、記述させて頂きました。私の半生が、素顔の国家公務員像を伝える一助となり、読んで頂いた方にとって少しでもお役に立つものであればと思っています。

 公務員試験の最難関と呼ばれる国家公務員 I 種に合格した今、私が思うことは、どんなに難しい試験でも何とかなると思うことです。私が大牟田の田舎で「官僚」という言葉に憧れながらも夢だと思っていたことが、今、実現しました。幼少の頃から英才教育を受けたわけでもなく、都会のエリート学校でもなく、ましてや所得が多い家庭に育ったわけでもない私が、それでも何かを目標に定め、少しずつでも努力した結果、夢を掴むことができました。私のような凡人でも、何か目標を定め、それに向かって努力を続けていけば、大きな夢も成し遂げることができます。もちろん、それ以上に私を支え、導いてくれた周囲の人たちの助けがあったからこそ、夢の達成を成し遂げることができたと思います。今でも親交がある小学校の先生、私が大学2年生の時に亡くなった塾の先生、そして公務員試験を合格まで導いてくれた渡辺先生の指導と、両親や、私の合格を泣いて喜んでくれた祖父母、多くの友人の支えがあって、私の夢は達成できました。

 私は全くのエリートではありません(こう言うと傲慢かもしれませんが)。しかし、残りの大学生活を終えれば、私は霞ヶ関の公務員です。世間からエリートと呼ばれる職業に就こうとしています。私は、その名に恥じないように心に抱いている大志を忘れず、また、私を支えてくれた人に少しでも恩返しできるような人間になるために、これからもずっと勉強を続けていこうと思います。

 私の夢の終点である国家公務員として内定したことは、あくまで通過点に過ぎないと思います。これから長い公務員生活が待っています。私は次の目標を定め、努力を続けていこうと思います。最後に、国土交通省の人事の企画官の方に聞かれたことを書いて自分史を締めたいと思います。

 問「君の将来の夢は何ですか?」
 私「大牟田市の市長になって、自分の故郷の人たちが喜んで暮らせる街をつくることです!」

(了)
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