The Future [ HOMEキャリア・エリートへの道>人生のターニングポイント]
キャリア・エリートへの道

人生のターニングポイント

はじめに

 おそらく就職とは、私たちの人生の中で最大のターニングポイントであるといえるでしょう。今、そのターニングポイントを迎え、たまたま私は満足のいく職業を手にすることができました。22年余りの人生を振り返ってみても、こうして『キャリアエリートへの道』というコーナーで文章を書くことのできている自分がいることを不思議に思わざるを得ません。

 ただ、「あの時、自分はこうしていたから」、「あの時、あの人に出会えたから」今の自分があるのではないかなと思うことがいくつかあります。平凡な人生ではありますが、今国 I を目指されている受験生が霞ヶ関への思いをより一層強めていただけるよう、私の小さなターニングポイントを紹介していきたいと思います。

第1章 幼少期

 私は1981年初春、大阪府に生まれました。1歳の頃から現在まで住んでいる枚方市は大阪府の北端にあり、2駅行けばそこは京都府です。枚方市は典型的なベッドタウンで非常に住みやすい町です。市内には船橋川・穂谷川・天の川の3つの川が流れ、いずれも淀川に注いでいます。枚方市の天の川は在原業平の句にも出てくるほどで、毎年夏になると七夕祭が盛大に行われます。また、夏休みの最後に行われる「くらわんか花火大会」は市民が楽しみにする恒例の行事となっています。私の家からは少し歩いて堤防に上がれば花火を見ることができたので、よく両親に連れて行ってもらいました。

 そんな枚方市で育った私は幼少期を実に平和に過ごしていたと思います。長男で初孫ということもあり、両親や祖父母に動物園や遊園地、各地の名所に連れて行ってもらいました。「連れて行ってもらいました」と言っても、その時期の記憶などほとんどなく、そう聞いているだけです。

 性格はといえば、すぐすねる子でした。ジュースが買ってもらえない、先に歩く親に待ってもらいたいのに待ってもらえなかった、その他かまってもらえないなど、とにかく素直な子ではなくどこかひんまがった子でした。にもかかわらず、本人は平和に過ごしていたと思っているのですから、親のほうは苦労していたでしょうね。

 4歳になって幼稚園に入ったころ、弟が生まれました。少し離れていたこともあり、私は大変弟をかわいがっていました。しかし一方で、ひがみがちな私は、両親や祖父母の関心が弟ばかりに向けられていたことに対しよくすねていました。お兄ちゃんになりながらも、まだまだ甘えん坊だったのでしょう。

 幼稚園であったことで覚えていることといえば、縄跳びの結び方を教えてもらった瞬間や、サンタクロースの人形をクラスで一番に作り上げた瞬間などです。この時期はかなり記憶が断片的なのですが、その中でも鮮明に覚えているのが、枚方市民会館で行われた生活発表会(お遊戯会)で園児代表の挨拶をしたことです。ステージ上で何百人の父兄を前にして挨拶をしたわけですが、どうやらこの頃から人前に出たがる目立ちたがり屋であったようです。

 その他、母親が言うには、私がある日幼稚園から帰ってきて満面の笑顔でこういったそうです。「お母さん、今日良いことがあってん! 女の子を好きになってん!!」4歳児でありながら、なかなかませた少年でありました。

第2章 小学校時代〜学校生活・スポーツ編〜

 自由奔放かつ不自由のない生活は小学校入学後も続きます。何かに追われるということもなく、放課後は暗くなるまで近所の友達と町内を走り回る少年でした。夏は空き地で虫取りをし、冬はクラスの友達と「誰がいつまで半ズボンはいてられるか勝負や!!」などと、今から思えばなんともほほえましい小学生でした。当時は、結構真剣勝負だったんですよ。やせ我慢の勝負ともいえますが。

 当時、私は剣道を習っていました。幼稚園のときの同級生がやるから自分もということで始めたわけですが、重い防具は体の小さかった私にとってはかなりの負担で、正直習っているときは楽しくありませんでした。とはいうもの、地元の大会では小2の時に準優勝しました。ちなみに、そのときの決勝戦の相手は私が剣道を始めようと思うきっかけとなったあの幼稚園時代の同級生でした。さらに、小4のときには、広島県福島市で行われた全国大会で優勝しました。これは団体戦ではありましたが、私自身は中堅として全勝し優勝に貢献することができました。中学生にならなければ初段を取ることのできない剣道を小6でやめてしまったため1級取得にとどまっていることだけが残念ですが、大会に出て結果を残せたことは私にとっていい思い出です。

 学校では、小4の時にクラスの代表委員を、小5の時は生徒会の副会長を務めました。どこの小学校でも同じであるとは思いますが、副会長選出のための選挙に備え選挙活動を行い、選挙当日は高学年の生徒全員の前で演説です。その後、当選マークが私の名前の上についた時はなんとも晴れやかな気分になったことを覚えています。副会長としての仕事は所詮小学生ですから、それほど大きなものを任されるというわけではありませんでしたが、とにかく人前で話すということに対しては抵抗を感じることなく積極的に取り組んでいました。

小学校時代〜勉強編〜

 しかし、遊んでばかりいたわけではなく小2になると母親の教育熱に火がつき始めます。夕方6時から7時は絶対に学校の宿題をする時間で、夕食後は算数と国語のドリルを使いながら、母親による家庭内学習が行われていました。わからなくて泣いたこともしばしばあったと思います。ただ、勉強をするという習慣が身についたという点では、後に私が進む道のスタート地点であったと思いますし、感謝すべきことだったかなと思います。

 小5になると塾に行くようになります。もちろん私の意思で塾へ行き始めたわけではありませんが、気がつくと塾通いの日々が始まっていました。成績はというと母親による家庭内学習のおかげか、悪いほうではありませんでした。灘・東大寺・洛南・洛星・星光といった難関私立中学のレベルには届かないものの、有名私立なら行けるかなというぐらいでした。一方、学校では小4から黒ぶちのめがねをかけ始め典型的な成績のいい子として「博士」と呼ばれたりもしていました。それ以外思いつかんかったんか!!と叫びたくなるほど安直なあだ名ですが、とにかくその当時はそれで通っていました。

 小6になると、塾では中学入試の話になります。当時は学校でもそれほど塾に通っている友達は多くなく、塾に通っているということは中学入試に挑むということを意味していました。ですが私は私立中学を受けませんでした。理由は不確かです。ただ、父親のほうが中学から私立の行かせることに賛成しなかったようです。そもそも、私を塾に生かせた母親も私立中学に行かせたいがために塾に通わせたわけではなく、普段の勉強のために通わせただけだったので、このことでもめることも特にありませんでした。

 私立を受験しないことを決めた私は、小6の冬から「英・数先取り講座」を受け始め、人よりはやく中学の勉強を始めることになりました。このとき、人生のターニングポイントを迎えます。人より先に勉強を始めていることのうれしさから、楽しんで英・数を勉強することができ、私の学力は「有名私立レベル」から「難関私立レベル」へ一気にあがりました。

第3章 中学校時代〜学校生活・スポーツ編〜

 私立中学を受験しなかった私は地元の渚西中学校に入学しました。渚西中学は1学年4クラスの比較的小さな中学です。当時の私は友達とよくけんかをしていました。もちろん殴り合いのけんかなどではなく、口論の後に口を聞かないというパターンのけんかです。しかし1年もそういうけんかを繰り返していると、不思議とお互いのことが理解でき一番の友達になっているものですね。冷戦状態の一番長かったM君とはもう10年のつきあいで、今でも近所に住んでいるということもありますが、よく会って話をしたりします。

 中学では生徒会の図書委員長を務めました。この時も図書委員会での選挙により選ばれました。中学校の生徒会ではやはり小学校よりも色々なことができました。まず、体育祭や文化祭の運営です。もちろん先生も手伝ってはくれますが、主催者として全体を見渡すことができました。文化祭では、生徒会主催のコント・劇は大盛況でした。特にコントは大ウケで大満足でした。その他、阪神大震災の被災者支援として生徒会役員が校門の前に毎朝立って全校生徒から援助物資を募り神戸へ送ったりもしました。

 小学校で剣道をやめた私は、サッカー部に入りました。別にサッカーが好きだ(むしろ、野球のほうが好き。当然阪神ファン!!)というわけではなかったのですが、その年にJリーグが開幕し時代の波に流されたというのが本音です。サッカー部に入ったまでは良かったのですが、満足に参加できませんでした。原因は塾です。当時、塾は週に1回日曜日だけでした。しかし、その日曜日にクラブの試合があったのでほとんど試合には参加できませんでした。試合に参加できないというのは致命的で、どこかしらクラブ内で浮いているような気がしていました。決して、友達から仲間はずれにされるとかいうことはなかったのですが、自分自身の気持ちとして満足できてはいませんでした。そして、2年の夏、塾へ平日に行かなければならなくなり退部を余儀なくされました。ろくに試合に参加することもできなかったのに、皆より1年も早くクラブをやめてしまい完璧な不完全燃焼となりました。それでも、2年の夏のある練習試合の帰り道です。たまたま、出ることのできた試合で、さらにたまたま活躍した私は顧問の先生に「お前、次の試合は出られへんのか? お前が出んと、勝たれへんわ」と言ってもらいました。素直にうれしかったです。この時ほど、クラブをやめることを残念に思ったことはありませんでした。しかし結局、私はクラブよりも勉強を選んだのです。

中学校時代〜勉強編〜

 中学の勉強を始めるや否やレベルの上がった私は順調に勉強を進めます。塾では週に1回日曜日に6時間かけて英・数・国・理・社を勉強していましたが、一番上のクラスはたった3人でほとんど個人レッスンといった具合でした。また、先生もおもしろく当時の私は非常になついていました。自分の大好きな先生に出会えたことは勉強を進める上でも何よりエネルギーとなり、本当にいい先生に出会えたことは幸運でした。

 しかし、そんな矢先に塾のシステムが変更するということで今までのような授業が受けられなくなりました。そのため、中2の春に新しい塾に移ることになりました。馬渕教室という名のその塾は大阪では厳しいということでかなり有名な塾です。そこで勉強を始めた私ですが、そこは公立高校をターゲットにしていたところであったので、さらなる飛躍を求め、よりレベルの高い私立高校を狙う馬渕教室創駿会に中2の夏に移りました。そのためクラブもやめる羽目になったわけですが、ここにきて洛南高校を目指すようになります。

 洛南は私立高校では珍しく、高校からの募集定員の多い高校で塾側からはとにかくここを目指すように言われました。周りが全員洛南を目指していたので、その波に流されいつのまにか私も洛南合格を目標に受験勉強を開始することになりました。ここも今から思えばひとつのターニングポイントです。もし前の塾のまま勉強していたら、もし創駿会に来ず公立高校を目指していたら、今の自分はなかったかもしれません。そういう意味では、自分をより高い目標へと導いてくれた創駿会やその先生・友達に出会えたことは本当に幸運でした。

 そして、第1志望の洛南高校に合格し、私のガリ勉人生は真骨頂を迎えることになります。

第4章 高校時代〜学校生活・スポーツ編〜

 洛南高校は真言宗の学校です。毎月21日は御影供といって全校生徒が体育館に集まってお祈りをする日で、その日は作文を書いて午前中で学校は終わりでした。わけのわからないお経を唱え、校長先生の1時間以上にもわたる長い話を聞くのは苦痛でしたが、午前で学校が終わるのはかなり幸せでした。

 洛南は男子校です。男54人のクラスが12クラスというマンモス高校です。教室には机がびっしりと並んでいます。夏には水泳大会が行われます。ワインレッドのブーメランをはいた高校男児600名がプールサイドに結集します。中年の女性教師は1人で盛り上がっていました。ジャージも上下ワインレッドです。夏の体操服は上下白のランニングに短パンで、ランニングには大きく「R」の文字がプリントされており、なんとも言いがたいデザインでした。

 洛南は校則の厳しい高校です。毎月1回、身装検査が行われます。まず、髪の毛は横、後ろを刈り上げ、前髪は押さえた状態で眉毛にかかってはいけません。検査に引っかかると合格するまで呼び出され続けます。そのため、面倒になり丸坊主にしてくる生徒が3年間で倍増するという珍現象がどこのクラスでも見られます。さらに、学ランのホックをとめていないとすぐ注意されますし、何よりも制帽があるのです!!「大正ロマンじゃないねんから勘弁してくれよ!」と思いながらも、もしかぶらずに下校しているところを見張りの先生に見つかると職員室まで帰らされ、担任のはんこをもらわなければなりませんでした。

 クラブは中学に引き続きサッカー部に入りました。サッカー部といっても私たちの入るクラブは2部と呼ばれ、スポーツ推薦で入学してきた人たちが入る1部とは完全に分けられていました。2部は週に1回ゲーム形式で練習をするという程度でしたが、勉強の合間にやるものとしてはちょうどよかったです。

 この高校は行事が盛りだくさんです。前述の水泳大会のほかに、バレーボール大会・柔道大会・バスケットボール大会・サッカー大会・百人一首大会・文化祭・体育祭があります。そして、すべて本気です。柔道大会では、クラスの5人の代表選手に選ばれ、私が背負い投げをしている瞬間の写真が卒業アルバムに載りました。と言いながらその試合で負けたんですけどね。高2のサッカー大会では1対1の引き分けからPK戦となり最後に私が決めて勝利したということもあり印象深い大会でした。「おいしいとこ取りやな!!」と周りからは言われましたがとてもうれしかったです。こうした行事のときに、当時の担任の先生がよく言っていたことがあります。「勉強も大事やけど、行事も一生懸命参加しなあかんぞ。皆が文化祭の準備で遅くまで残ってるときに、勉強するからとか言って帰るようなやつはあかんな。そんなやつは大学も落ちる!」要するにメリハリが大事だということですね。与えられた時間の中でいかに自分の力を発揮し、最良の結果を残すかということはこれから社会に出ても忘れてはいけないことですし、国 I の勉強中も自分に言い聞かせていました。高校生のときは「それは言い過ぎやろ」と軽く流していましたけどね。

高校時代〜勉強編〜

 洛南は関西屈指のガリ勉進学校です。現在、京大への合格人数は毎年100人を超え、日本一です。東大は50名程度です。クラスの担任は、入学して2日目のHRで東大・京大の話をし始めました。ある種洗脳です。この時点でクラスのほぼ全員が東大・京大を目指すようになります。そこ以外は、およそ大学ではないかのような扱いです。全体のHRで東大・京大以外の大学の話を先生がしたことは結局3年間で1度もありませんでした。この結果、多くの生徒が「京大病」にかかるのです。つまり、自分の実力もわきまえずに京大をねらうがために惨敗して浪人してしまうのです。

 とにかく、塾のような学校です。毎回の定期テストでは上位優秀者は名前を掲示しますし、模試も強制的に受けさせられます。高3のときに受けた模試は20個を超えます。進路指導ももちろん完璧です。ですから、洛南高校生で塾に通っている者はあまりいません。きわめつけは勉強合宿です。近くの洛南会館や高野山の寺に泊り込みで1週間ほど行われます。1日中勉強です。気を抜くことができるのは、食事と風呂のときだけでした。高3のセンター試験直前も合宿でした。12月30日から1月5日まで全日空ホテルで勉強です。ちょうど年が変わる瞬間、隣のホールではカウントダウンをしていました。私はその夜の自習時間が終わるまでをカウントダウンしていました。

 当時の私の成績はどうかというと、クラスでは中の上で、「京大予備軍」と言われる位置にいました。すなわち、今年京大に受かることは保証できないが1浪したら絶対受かるだろうという位置です。先ほど、多くの生徒が「京大病」にかかると言いましたが、何を隠そう私も完璧にそのうちの1人でした。直前の模試では979人中930番でしたが、それでも受かると思っていました。愚かでした。

 結局、自分の実力を認識しないまま京都大学法学部を受験し、前期・後期ともに玉砕したのです。

第5章 浪人時代〜受験勉強〜

 大学不合格を受け、私の家庭は荒れました。母親は「落ちるとは思ってなかった。」「阪大にしてたらよかったのに。」「裏切られたわ。」と、毎日言っていました。あまりにしつこいので、キレて電話帳を本気で投げつけたこともありました。

 4月から通う予備校を選ぶにあたっても家族内でもめまくり、修羅場でした。父親からは「金を払う以上、しっかり選ばなあかんやろが!」と、言われました。全くもってその通りなのですが、「金・金・金」と言われることに私は非常に抵抗を感じていました。それまでは、当然のように学費を払ってもらい塾へも行かせてもらっており、私自身に親にお金を払ってもらっているんだという感覚がありませんでした。天からお金が降ってくるわけではありませんし、少し考えればわかることなのですが、「親に教育費を払ってもらってる」という感覚や、そのことを親に感謝するようになったのは大学に入ってからでした。

 予備校生活はすべて順調でした。そのときに仲良くなった友達には本当に支えられ、挫折することなく勉強できました。同じ大学に入ったその友達とは、入学後もよく遊んでいますし、違う大学へ行った友達とも一緒に旅行へ行ったり飲んだりしています。また、通っていた予備校のチューターにも恵まれていました。東大・京大文系クラスを担当していた男女のチューターは第2の父母のような存在で、よく話を聞いてもらっていました。大学に入ってからも、皆で訪れては話をしたり飲みにも行っています。

 勉強の方は、1浪したら受かる典型的な「京大予備軍」らしく、受ける模試のほとんどがA判定でした。

 浪人生活の始まった当初は家庭内も荒れていてかなり苦しかったですが、夏ごろからは友達とも仲良くなり成績も安定していたので、受験に対する不安はあったものの決して暗い1年などではありませんでした。それに単なる足踏みだったとも思っていません。なぜなら、国 I を目指そうと思ったきっかけがこの浪人時代に訪れたからです。

浪人時代〜大学の先にあるもの〜

 私は小6の頃から毎日欠かさず日記をつけています。もう11年間書き続けていることになります。その中で、私が浪人時代を送っていた2000年の日記には以下に紹介する記述があります。ずっと日記を書いてきた中で、この時ほど長い文章で自分の気持ちを書き留めておこうと思ったことはありませんでした。

1月1日
 夜中のテレビ番組にて、元警視庁に勤めていた人やソニーの盛田氏と共にソニーを築き上げた取締役の人らの対談を聞いて感動した。この話を通じて、大きな夢が俺の中で膨らんだ。大学に入り、アメリカへ留学し、帰国後行政の道へ進むという夢だ。
 彼らの話は以下のとおりだ。
 日本人はなめられている。戦後、我々にはアメリカらが押しつけた憲法に口出す権利すらなかった。日本はアメリカの言いなりになっている。あるアメリカの新聞の投書欄にこういう記事があった。『ソマリア難民を救うためにアメリカは軍を出すべきと他国から言われるが、どうしてその必要があろうか。そもそもソマリアの今に至る原因を作ったのは、ここを植民地化したイギリスとイタリアにある。ゆえに両国が軍を出動させるべきだ。その金は日本が出せばよい。』
 日本はたたけば金を出すと思ってやがる。北朝鮮も同じだ。日本を甘く見ているからこそ、テポドンだとかほざいて、海岸100kmのところにミサイルを発射してくるんだ。戦後50年たって大きく育った日本樹は独立してもよい頃だ。アメリカと距離を置いた田中角栄のように。しかし残念なことに日本人は自分の意見を自分で主張することが苦手だ。
 どこかの難民のために持っていた食糧をある兵士に渡したら、その兵士は何も言わずに奪ったらしい。日本人はその態度に対して憤りを感じたものの、殺されるかもしれないという恐怖から何も言わなかった。しかし、その中の一人の男が日本語で『その食糧は難民のためのものであって、お前らのためのものではない!』と怒鳴った。すると、兵士は素直に食糧を返したらしい。結局、言葉の意味なんてわからなくても、その気迫で何を言っているかぐらいわかるもんなんだよ。だからろくにあいさつもできないような小学生に英語教育なんて意味ないんだよ。もともと日本人ってのはディスカッションやディベートが得意じゃない。もめると、すぐ『表でろ!』ってことになってしまって、相手を説得するってことができない人種なんだ。だからこそ、今の若い人達がそういう日本人を変えて、そして日本を変えてほしいんだよ。
 この話に大変共感した。たしかに以前から文部省が言うところのゆとりの教育には反感を覚えていた。これは単なる愚民化政策に過ぎず、子供たちが自分でものを考える時間が増え、そしてその効果が表れるようになるとはどうしても思えない。よってアメリカへ留学して、アメリカの国民性を学びたい。自分の考えを主張できない人間が無能とされる社会に触れ、そこで日本人にない国民性を学びとる。未来の日本が大国アメリカの言いなりにならないように、自分の意見が言える国家になれるようにしたい。また、その一員として活躍したい。
 アメリカに行けば、その国民性を得ることができるだろうと考えるのは短絡的であるかもしれない。それではどうすればよいか。それは大学に入ってから考えるしかなさそうだ。大学に入ることなんてある一つの門を開けることに過ぎない。その先には何段も続く大階段が待っている。しかし、そんな一つの門でも今の俺にとっては眼前にそびえ立つ大きな門だ。ひとまずその関門に精進することにしよう。

2000年1月2日AM2:06

 単純な発想で稚拙な文章であるとは思いますが、当時書いた文章をそのまま引用しました。塾の先生が洛南と言うから洛南へ、高校の担任の先生が京大と言うから京大へというように周りに流されてきた私の人生において、初めて自分の将来について考えたこの日は大いに意味のある日です。もし、ぎりぎりででも現役で大学に受かっていたらこんなことは考えなかったかもしれません。大学入試を控え、逆境の中でもがいていたからこそ自分の人生と向き合えたのだと思います。

 その3ヵ月後、私は無事に京都大学法学部に合格します。多くの友人が大学入試突破に一息ついて目標を見失う中で、私はそのまま新たな目標に向かって歩き出すことができました。あとから、振り返って思うことは浪人してむしろ良かったのではないかということです。たしかに浪人なんてものは所詮足踏みに過ぎず、浪人しないに越したことはありませんが、私の浪人時代は自分と向き合えた貴重な1年であり大きなターニングポイントでした。

第6章 大学生時代〜ガリ勉よ、さようなら〜

 次の目標ができたとはいえ、入学当初からその目標にむけて何かを頑張ったというわけではありません。1回生はまだ専門の授業がほとんどなく、もっぱら一般教養の授業でした。

 はっきりいって、授業に出ていなくても軽いレポートを書いたり試験前に少し勉強すれば一般教養の単位は取ることができました。そのため、授業には出ていたものの、それは友達に会いに行くためであって勉強をしに行ったわけでは決してありませんでした。およそ10年ぶりに勉強から開放された私は完全に自由な時間を手に入れました。

 私は1浪していたこともあり、1年早く大学生になった友達から大学生活について色々聞いていました。その時、複数の友達が「気付かんうちに、1年終わってもうてたわ。俺、何してたんやろ」と言っていました。これはつまり、今までは待っていたら定期テストや受験などやらなければならないことが降ってきたが、大学では本人が何かやるべきことを見つけるため動き出さない限り誰も面倒は見てくれないし廃人化するということです。

 そこで、今まで勉強ばかりでおよそ人間らしい生活を送っていなかった(と自分では思っている)私は与えられた時間をフル活用しようと思いました。入学前に車の教習所へ通い始め、バイトも見つけ、サークルも入学してすぐ見つけました。友達と普段から遊ぶということもしてこなかったので、可能な限り遊びました。海外旅行をしたり、飲みに行ったり、サッカーや野球をしたり、甲子園に早朝から並んで観に行ったり。1回生の頃は、このように好き勝手させてもらい、家に帰らなかったり帰っても終電で帰ったりしていたので、親には「子供がいきなり1人消えたわ! あんた、はよ帰ってきなさい!!」と言われていました

 大学に入ってから熱中したものにビリヤードがあります。はじめは友達に誘われて何気なくやり始めたのですが、「結構、おもろいな!」と思い始めた矢先に京大でビリヤードのサークルができ、ますます熱中するようになりました。京大の周りにあるビリヤード場3店の店員さんが立ち上げたサークルですから、レベルが高くレベルアップを図るには最高の環境でした。サークル内で予選をして、代表として他のサークルとの対抗戦にも出ました。ビリヤードは単なる個人競技であるだけでなく、与えられた球の配置をいかに取りきるかは全て自分の技術にかかわってきますので、ある意味自分と自分との戦いとなるスポーツです。それがかえっておもしろく、練習に打ち込みました。

 2回生の夏からはプロのいるビリヤード場の店員として働き、さらなる技術の向上に邁進しました。各ビリヤード場のハウストーナメントにも何度か出場しましたが、芳しい成績を収めることはできず。意を決して臨んだ関西ジュニアナインボール選手権も(スーツ着用の公式戦。かなり気合いの入った試合で、エントリー数は300人以上)4回戦敗退となりました。「優勝!」にはほど遠い結果となりましたが、一生懸命がんばった大学生活を象徴するいい思い出です。

大学生時代〜こんにちは、ガリ勉くん〜

 1回生のころはたしかに遊びほうけていたわけですが、2回生になると徐々に勉強モードへと移行します。京大法学部は司法浪人などで6割以上が留年します。そのため、学部の中では「別に5回生になってもいいか」といった風潮さえあります。しかし私は1浪していたこともあり国 I に受かっても受からなくても絶対に大学は4年で卒業すると決めていました。そこで、行政の道へ進みたいと思っていた私は、絶対に4回生で国 I に合格するため2回生の春にWセミナーに通い始めました。

 まずは、専門科目を仕上げるべく基本書を読むことなく過去問を解いていきました。問題を解きその解説を読むだけで、その問題をわかった気になれるので勉強そのものは苦にはなりませんでした。そして、2回生のうちに憲・行・民を終わらせ、3回生の春には刑法と労働法を終わらせます。

 3回生になれば早稲田セミナーの授業も本格的に始まり、必然的に勉強時間も増えていきます。当時、私には1つの目標がありました。国 I を3回生で合格することです。1浪していたため、受験資格をクリアーしていた私は1年後を見据えて6月の本試験にチャレンジします。結果は専門・教養ともに22点の計44点(合格点は53点or54点)で惨敗しました。過去問を解いている分にはあまり苦戦することなく勉強も進んでいたので、1次試験ぐらい受かるかなと期待していた私にとってこの結果は若干ショックでした。「世の中、そんなに甘くないな。」と、何度も思いました。そしてその後は、友達との遊びなどを極力やめて、勉強一筋の生活を始めました。

 そして冬からは確実に上位合格するため渡辺ゼミin京都に参加しました。

 繰り返しになりますが、関西には国 I 受験生が関東に比べ本当に少ないです。そのため、省庁のほうも関西ではそれほど業務説明会を行いません。その結果、東西で情報格差が生じています。さらに、受験生の意識も低いです。そんな環境で関東勢に打ち勝つためには渡辺ゼミしかないと思いました。実際、渡辺先生からの話はもちろん、1桁合格した東京の先輩ゼミ生が京都校に来てくれる機会もあり、かなり貴重な情報を得ることができました

 東京の現役ゼミ生とのつながりもでき、官庁訪問の際には本当に助けられました。そして、ゼミに入ってからは「絶対受からなあかん!!」と思っている友達と出会うことができ、私の国 I に対する思いはますますヒートアップしました。国 I に合格・内定獲得のために必要なものは、最新の情報と高い意識です。渡辺ゼミは私にとってその両方を提供してもらえる最高の武器となりました。

最終章 人生最大のターニングポイント〜前編〜

 勉強を本格的に始めたころ、私は文部科学省を目指していました。いじめや不登校で悩む子供たちを救いたいという思いからです。大学入学当初から塾の講師のアルバイトをしていたのですが、そこの生徒に不登校の子がいました。その子は、まずこちらの目を見て話してくれません。何を話しかけてもあいまいな返事しか返ってこずコミュニケーションが成り立ちませんでした。小学校・中学校時代は人間の基礎が築かれる大切な時期だと思います。そのときに人間関係につまずくと、人の集合体である社会でその人は幸せに暮らしてゆけないと思います。だからこそ、いじめや不登校は減らしていかねばならないと思うようになりました。

 その一方で、年明けから民間の就職活動も考え出します。前述のように大学は4年で卒業すると決めていましたから、国 I に失敗した場合は民間に就職しようと思っていました。本当に霞ヶ関で働きたいと思っているなら、もう1年ぐらいがんばって再チャレンジしたらいいのではないかという考え方もあるとは思います。しかし、2回生のころから勉強して落ちるようでは自分は霞ヶ関からお呼びでないとしか考えざるを得ませんし、なによりも「失敗したって来年受ければいい」などと思っていると油断してしまうような気がしたのです。

 父親が銀行員で、銀行の就活の時期が早いということから、銀行をまわることにしました。就活をするといっても、あくまで国 I がメインですからその勉強に支障が出ない程度に抑え、結局UFJ銀行と三井住友銀行のみをまわりました。内定がもらえるに越したことはないのですが、国 I 後の秋採用でもまだ民間はまわれると聞いていたので、「国 I 受けます」と言いながら両社をまわりました。結果的に、三井住友銀行からは電話がかかってこなくなったもののUFJ銀行からは内定をもらうことができました。

 また、このころから私の志望官庁に変化が起こり始めます。文部科学省が第1志望ということに変わりはなかったのですが、第2志望に金融庁を考えるようになりました。銀行に就活をするうちに、一民間企業からではなく国と言う立場から日本経済を見てみるのも面白そうだなと思うようになったのです。

 3月は就活に国 I の勉強にとかなりきつい時期でした。精神的にもかなり追い詰められていました。「銀行からもう連絡が来ーへんのとちゃうやろか」「国 I に落ちたらどうしよう、お先真っ暗や」「まだ、勉強が続くんか。あー、しんど」と、頭の中では常にぼやいていました。3月のある日、美容院へ行くと美容師さんに「お客さん、最近疲れてます? 頭皮があれてますよ」と言われました。やはり精神的な疲れが体にも出てきているのかと思うと泣きそうでした。4月になると、もう勉強から開放されたい一心で「早く本試験よ、来い!」と思うようになっていました。

 そして本試験前日。再び私の日記を引用したいと思います。

5月4日
 いよいよ前日!にもかかわらず起きたのは11時。昼、UFJの○○さんから激励の電話。別に緊張も焦ってもないけど、いい点とれるかは心配。スタートが肝心やし。っていうか、スタートで失敗したら次はないんやけど。

 なかなかシュールなことを書いていたみたいですね。ただ、本試験前日と言っても気持ちは落ち着いていたようです。たしかにやることはやりきったという感じがありましたから、その表れかもしれません。

人生最大のターニングポイント〜後編〜

 結局、1次試験は前年に比べ30点以上UPという実力以上の結果を出すことができました。1次試験の合格発表後から官庁訪問の際の宿を探し始めました。私はインターネットで探した中野坂上のウィークリーマンションを3週間借りることにしました。賃料は13万円ほどです。地方からの官庁訪問は全て含めると20万円かかると言われていますが、その通りでした。霞ヶ関が東京にある以上仕方のないことですが、なかなか大変でした。ただ、地方出身であるがゆえに、官庁訪問の際には「あー、大阪から来たの? 大変だね。今どこに住んでるの?」などと聞いてもらうことができ話のネタが増えました。

 さて、その官庁訪問ですが、私は予定通り初日に文部科学省をまわりました。文部科学省では志望動機から、いじめや不登校の話をしていました。「いじめや不登校を解決するためにはどうしたらいいと思う?」と聞かれ、それに答えても「じゃあ、それを行うためにはどうしたらいいと思う?」と聞かれ、それが何度も続きました。ほかの面接では「君は行政法のゼミだったみたいだけど、付属池田小学校の事件についての君の行政法的見解を聞かせてくれ」と聞かれたり、「突然だけど、教育基本法の改正について君はどう思う?」などと聞かれました。終始、ブース面接で教育の話をしていたと思います。

 対照的に2日目にまわった金融庁では課長補佐の机の前に座り、金融の話はするもののそれは仕事の説明の一環としてするだけで、専門的な話やこちらの見解を聞かれると言うことは皆無でした。その代わり阪神の話は特に多く、面接というよりほとんど雑談といった感じでした。そして私は、官庁訪問をしている中で職員の方の人柄や実際の職場の雰囲気を感じることができ、徐々に金融庁のほうに心が動き始めました。

 日本の将来を考えると、決して明るいものではないと思います。ニュースでも、不況・リストラ・失業率悪化という言葉をよく見かけます。私には大学を中退してフリーターをしている友人がいますが、彼は全く就職活動をしていません。彼が言うには、企業に入ってもいつつぶれるかわからないし、特にしたい仕事があるわけではないからだそうです。

 経済の悪化により人々の考えが悲観的になっているように思います。やはり、頑張ればその分報われる社会にするためには経済を好転させることが必要です。経済をよくするためには様々な方策がありますが、その中でもまず、資金の円滑な流れをつくり出すことが必要であると思います。

 そうした意味で金融庁の扱う金融行政は、明るい未来をつくり出すことを究極の目的とする国政の原点であると思います。

 また、ものすごいスピードで変化する経済に注視しながら刺激ある仕事ができ、民間企業を相手にするので霞ヶ関村に閉じこもることなく世の中を見ることのできる金融庁は大変魅力ある官庁であると思います。

 2003年7月4日、私はその金融庁から内定をもらうことができました。

最後に

 就職とは、私たちのこれからの人生を左右する大きなのターニングポイントです。その大事な時期を乗り越えるために必要なことが1つあります。それは、「一生懸命頑張ってやりきること」です。これは単純なことに思えて実行するのは非常に難しいことだと思います。

 最大限の努力をしてやりきることが大事なのは後悔しないためです。国 I に未練を残したままどこか他のところに就職が決まったとしても、果たしてそこで全身全霊働こうという気になれるでしょうか。今後数10年働くことになる職場ですから、「自分はここで働くんだ!」という気持ちになれることがその後の社会人生活を有意義なものにするためには必要であると思います。私の場合はたまたま就職に関しては自分の希望どおりになりましたが、「2年もかけて自分の希望がかなわないなら、はじめからそうなる運命やったんや」と思えるようになっていましたし、UFJ銀行で出会った人もいい人ばかりで雰囲気も良かったのでそこで頑張ろうという境地に至っていました。

 誰しも「あの時自分はこうしていたから今の自分がある。」と考えるポイントがあると思いますが、そのポイントのなかでも就職は自分と向き合い、自分の努力次第でどうにでもなるものです。自分の就職先に後悔せずわが人生に満足するためにも今できることをやりきってください。

(了)
©1999-2004 The Future